2019/02/11

『智慧への道』気づきと正知による心の観察


★このブログにて少しずつ公開していきます。

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『アチャン・チャー法話集』全3巻をすべて訳し終えられたことに、いま、ほっとしております。肩の荷がおりました。

2008年より数年間、『Patipada』にてアチャン・チャー法話の翻訳を始め、その後、出版社より翻訳出版のお話をいただきました。

長年、アチャン・チャーの法話に触れてきました。

このように続けてこられたのも、読んでくださる皆さまの、あたたかいお声かけと励ましがあったからこそです。

この場を借りて、心よりお礼を申し上げます。ありがとうございます。


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【新刊のお知らせ】

智慧はどのように現れ、私たちを覚りに導くのでしょうか?

アチャン・チャー法話集 第三巻『智慧への道――気づきと正知による心の観察』が刊行されます。

智慧と思考の関係は? 正見とは? 無執着とは? など、第三巻には "智慧" に関する法話が収められています。よろしければ、ぜひその智慧に触れてみてください。



アチャン・チャー法話集 第三巻『智慧への道―気づきと正知による心の観察』アチャン・チャー著、出村佳子訳
アチャン・チャー法話集 第三巻
『智慧への道――気づきと正知による心の観察』


1970 年代から80 年代初頭にかけて、アチャン・チャーが、タイやイギリスの出家者・在家者に語った法話の中から、珠玉の16 法話を収録。
20 世紀を代表するタイ森林派の名僧は、出会った人々の心に寄り添い、その瞬間ごとにダンマを説かれてきました。
ものごとをあるがままに見ること、そして、無執着の実践をくり返し強調し、苦しみを滅する道を指し示してきた賢者の智慧に触れる一冊


目 

23 「観察」とは何か?
24 ダンマの性質
25 コブラを扱うように
26  心の「中道」
27 やすらぎを超えて
28 「世俗」と「解脱」
29 変わらないものはない
30 正見――落ち着きの場
31 本当の家
32 四聖諦―四つの聖なる真理
33 「トゥッチョー・ポーティラ」中身のない長老
34 聖者の基準―「確かなものはない」
35 静かに流れゆく川
36 超越
37 「無条件」へ
38  エピローグ
用語解説、注、出典
訳者あとがき
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生きとし生けるものが幸せでありますように

2019/02/08

他の役に立つように生きる「善悪とは?⑥」


他の役に立つように生きる


世の中を直そうとすることは、自我でおこなう悪行為です。

世直しをすることなど、私たちにはとうていできません。

前の号で「功徳」について説明したとき、功徳は完成させることができないということをお話しました。いくら功徳を積んでも、やるべきことが残っているからです。これが死ぬまで続いていくのです。

世直しも、これと同じです。世直しは、いくらやってもやりきれません。不可能なことで、ありえないことなのです。


そこで、世直しをするのではなく、人の役に立つことをして生きてみてください。

役に立つ行為をしている人を非難する人はいますか?

いないでしょう。

いないんだったら、人の役に立つことを実行すればどうでしょうか?

どんな宗教でも「人の役に立つ行為は善いことだ」と言っています。

ですからやってみてはいかがでしょうか。


世の中には、社会を直しましょう、皆を愛しましょうなどのスローガンが溢れています。

一見、とても美しい言葉のように感じます。

しかし、みな不完全な言葉に惹かれるだけで、スローガンに実行力はないのです。

言葉というものは、人を感動させるために使うよりは、人々の役に立つために使ったほうがよいのです。


これから、人に何かを教えるときのポイントを説明いたします。



・個人攻撃をしない


誰かの生き方に過ちや間違いが見えたとき、「おまえが悪い」と言うのはやめてください。

真理を知っている人にとっては、「おまえ」や「私」ということは存在しません。「みな生命だ」と見るのです。

その人は、「生命は過ちをするものであり、やってはいけないことをするものだ」ということを理解しています。

それで、相手を責めるのではなく、「そんなことをしたらどんな結果になると思う? これをやり続けてもいいと思う?」と聞くのです。


あるいは、やったことにたいして「まあいい、終わったことだから。今日から真面目に生きましょう」と、それだけ言います。

そうすると、言われたほうは安心して、気持ちが落ち着きます。

こんな優しい人にもっと信頼されたいという気持ちになり、善行為をするようになるかもしれません。

これが正しい世直しのやり方なのです。



・客観的な事実を語る


他人に道徳を語るときは、宗教、信仰、主義などの先入観を入れずに、客観的な事実を話さなければなりません。

みんな、何かを話すときは自分の言葉に権威をつけるために、すぐ宗教や自分の信仰を持ち出すのです。

そうすると対話ができなくなります。

たとえば「神様が禁止しているから〇〇をやってはいけません」と言う人に、「自分は神様を信じていません」と言えば、それで話しは終わってしまうのです。


他人に道徳を語るときは、宗教や信仰、主義などの先入観を入れてはいけません。

文化も使ってはいけません。文化は変わるものですから、そういうものを使って人を育てることはできないのです。

私たちはその間違いをよくやっています。



仏教がいう「善・不善・功徳・悪」は、すべての生命に共通する普遍的なものです。

ある特定の宗教の教えでも、哲学でもありません。人が否定することは不可能なのです。


・自分で実践して体験する


自分がまず実践して、体験することが大切です。

その後、他人に話すのです。

他人の過ちを直す場合は、お釈迦様の言葉づかいを学んでみてください。

お釈迦様はビシッと完璧に語られるのですが、個人攻撃はしません。

相手の尊厳を害すことはしないのです。


お釈迦様は一度も「汝は殺生するなかれ」と命令したことはありません。

出家者にたいする戒律項目はそういうふうにありますが、そのときでも極力命令することは避けています。


命令するというのは、人権侵害です。お釈迦様は指令ではなく、「幸福になりたければ、殺生をやめたほうがいい」とか、「自分の幸福を目指す賢い人は殺生しません」とおっしゃいます。

「あなたは殺生するなかれ」と命令しません。

このような言葉を使っていましたから、お釈迦様に逆らうことは誰もできなかったのです。



他の役に立つように生きる スマナサーラ長老(根本仏教講義『善悪とは?⑥』/文責:出村佳子)



直せるのは一部の人だけ


私たちが直せるのは、自分と関係のある、自分の影響力が伝わる人だけです。

お釈迦様の場合は特別な能力がありましたから、影響力はものすごく強力で、広大に及びました。

お釈迦様に会って5分か10分話すだけで、その人は善人に変わったほどです。

他宗教の人はこれを間違えてとらえて、「お釈迦様は魔力を使っているのではないか」と言う人もいましたが、あれは魔力ではありません。



私たちが直せるのは、自分と関係のある、自分の影響力が伝わる人だけです

私たちに大それた世直しはできません。


たとえば私の話を聞くのは、私に関係がある人たちだけです。

この説法も、こちらに来た皆さま、あるいはこれを読んでいる皆さまだけにしか届きません。

自分の影響力が伝わる人だけなのです。

ですから、そんな程度で、私たちの能力はいつでも限りがあるということを理解しなくてはいけません。



そこで、自分の限られた範囲内で他人に「道」を教えましょう。

世直しをしたり、非難合戦をしたり、「なんだこの世界は」とか「この世界はろくでもない」などと言って精神的に苦しんだり病気になったりする必要はないのです。



たとえば自分の子供が何か間違ったことをしたら、それは直してあげます。

となりの家の子が間違ったことをした場合には……、

何も言わないほうがいいでしょうね。

もし、自分の子供が「となりの子もやっているから」と言ったら、こう話してください。「それはかまいませんよ。君が立派な善い人間になってほしい」と。


(続きます)


生きとし生けるものが幸せでありますように


2019/02/06

不満と希望(希望と欲望⑦-2)



不満と希望


最後に、不満と希望の関係について、もう少し説明を付け加えておきたいと思います。

私たちは心の中で不満を感じていますが、それはあまりにも大雑把で、はっきり「これが不満」ということは知りません。そこで、「私はこういうことが不満です」と具体的に理解するようにしてください。自分の不満は何か、何が、どう不満なのか、ということを明確に理解するのです。そうすると、それはなくせる不満か、なくせない不満か、ということが分かりますし、それが分かれば、不満を解決する道も出てきます。そうでないと、ただ「なんとなく不満……」ということで終わってしまうのです。



そこで「なくせる不満」なら、実際なくすように努力します。とはいえ、その不満が消えれば、次の不満が現れて来るでしょうから、そのときはまた、次の不満を理解するようにしてください。



「なくせない不満」なら、きっぱりあきらめることです。私たちは夢や希望、欲望をいろいろ持っていますが、それらはあまりにも大雑把で曖昧なため、混乱しています。そこで、このときも現実的になって「自分は何になりたいか、どうなりたいか」と考えてみるのです。


もし「この夢は大きすぎる。あり得ないものを考えて妄想している」ということを発見したなら、「これは自分に無理」ということがはっきり分かりますから、きれいにあきらめて落ち着くことができるのです。


希望には二つあります。
一つは、実現できる希望。これは実現できるように努力することが大切です。


もう一つは、ただの夢で、とんでもない妄想から生まれた希望です。これが見つかったら、そんなことはあり得ない、不可能だ、とその場できれいに取り消してください。



たとえば、ある20歳の若者が歌手として大変人気が出て、短期間で億万長者になりました。それを見て「自分も億万長者になりたい」と思ったとしましょう。このとき、こう考えるべきです。お金が欲しいということは、いま自分にお金がないということ。あの歌手みたいに短期間で億万長者になれればいいけど、私の能力では無理。では、私の能力では実際どのぐらいのお金を稼ぐことができるだろうか。また、どのぐらいのお金が私の生活には必要か、と考えてみるのです。それで計算して、自分のレベルに収入の目的をダウンし、それを目指して頑張るようにするのです。


スマナサーラ長老法話 出村佳子(文責)



危険を知る人が、危険を避ける



不満を理解していないと、私たちの生き方は曖昧で、はっきりしません。これはちょうど目に膜が付いている人が森の中で迷っているような状態です。


目に膜が付いている人が、一人で森に入りました。目が見えないと、木にぶつかったり、つまずいて転んだり、蛇に噛まれたり、ハチや虫に刺されたり、迷子になったりと、非常に危険です。



そこで、目に付いている膜を外すとどうなるでしょうか?


その人は、ヘビや危険な獣がいることを見ることができますし、「森は危険である」ことを知ることができます。それから、東はどこか、西はどこかと方角を知ることもできます。それで順番に歩いて行き、やがて森から出ることができるのです。


たとえ出られなくても、目が見えなかったときほど危険な目に遭うことはないでしょう。木にぶつかることもなく、安全な道を選んで歩くことができるでしょう。


同様に、不満という森で迷子になっている人が、目に付いている膜を外し、はっきりと「見る力」を持ちます。何を見るかというと、不満の危険性です。不満の危険性を見る人には、どうすればその危険を避けられるかということが分かるのです。



このように、森の危険性を見る人が森の危険を避けることができるように、不満の危険性を見る人が不満を乗り越える道を知るのです。




助け舟はお釈迦様の教え



問題は、私たちに不満を見る明晰な理解力があるかということです。
残念ながら、ほとんどの人にはありません。その証拠に、世間はいつでも悩みや混乱、ストレスでいっぱいです。



このような中で、私たちの助け舟は、お釈迦様の教えです。お釈迦様はご自身で智慧を育て、悟りを開き、真理を発見され、その真理を他の人々にも分かるよう、明確に教えました。そこで、私たちが明晰な理解力を育てるためにまずすべきことは、智慧の完成者であるお釈迦様の教えを学び、心の明晰さを濁らせる悪い感情を一つ一つ勉強することです。嫉妬や怒り、落ち込み、物惜しみなどの悪い感情は、心の明晰さを濁します。


会社で仕事をしているとき、隣に座っている人はライバルだと考えて、その人にたいして敵対心をつくったら、必ず自分の心が汚れます。相手を倒さなくちゃいけないと思った人は、相手を倒す前に、自分が負けるのです。ですからお釈迦様は、「競争心はよくない、他人をライバルと思うことはよくない」と教えました。そういうことを勉強して、汚い感情を避けるようにするのです。


これは仏教を勉強することでしか得られません。仏教の教えを聴くことは、徳の中でも非常に高い徳で、聴けば聴くほど頭が冴えてきます心の悪い感情はどれか、善い感情はどれかを明確に分析し、区別し、理解できるようになるのです。



次にすべきことは、実践です。心の汚れを最終的になくすことができるのは、今の瞬間に気づくという「ヴィパッサナー」です。これは私たちの心を清らかにする唯一の道であり、最も効果的で、最も優れた実践法なのです。(了)



スマナサーラ長老法話


根本仏教講義『希望と欲望⑦-2』/文責:出村佳子


2019/02/04

1日の瞑想ーどのくらい瞑想すべきか?





A:回 答 ―― グナラタナ長老


毎日、少なくとも、朝と晩それぞれ30 分間ずつ瞑想すべきだと思います。もちろんこれは決まっている時間でもなく、義務でもありません。在家生活でのあわただしく忙しい生活を考えると、これが瞑想したいと考えている方がすべき、最低の時間だと思います。

私はたいてい瞑想する在家の方には、毎日、怠ることなく、朝と晩、瞑想するようすすめています。

また、日中、働いている方は、以前お話した「1分間瞑想」を職場でするようにしてください。1時間ごとに1分間、瞑想するのです。

時間があるときには、瞑想合宿に参加して、集中的に瞑想するとよいでしょう。

このように、
・朝・晩30分間の瞑想と、
・職場で1時間ごとにする1分間瞑想と、
・瞑想合宿での集中的な瞑想
を実践することで、定期的に瞑想することができるのです。







決意する



それから、「気づきの実践をしよう」と決意することが大切です。実際、気づく機会は、1日のうちどの瞬間にもあります。夜、ベッドに横になっているときでさえ、呼吸に気づきながら眠りにつくこともできるのです。


座る瞑想について


「座る瞑想」は、朝と晩にするとよいでしょう。これを習慣にしてください。朝は、感覚がまだ静かで、1日のあわただしさに影響を受けていませんから、瞑想しやすいと思います。他の誰よりも先に起きて、その時間を自分の心を育てるために使うことは、とても楽しいことです。


在家の方にとって、夕方や夜に瞑想するのはむずかしいかもしれません。部屋のテレビがついていたり、パソコンの音が鳴っていたり、子どもたちが喧嘩したり、携帯電話のベルが鳴ったりなど、騒々しいかもしれないからです。


しかし、そうした騒音が静まってから瞑想したり、あるいは静かな場所に行って瞑想できるなら、夕方や夜でも十分に瞑想できるでしょう。

ペースの早いせかせかした現代生活では、どうしてもストレスがたまってしまいます。しかし、そうしたストレスや過度の刺激を、より簡単に、より穏やかに、より賢く対処する方法があります。

夕方や夜、定期的に30分くらい座る瞑想をすると、日中の疲れを和らげることができます。瞑想することで、心や精神を休ませ、心のいらだちを落ち着かせることができるのです。

ほとんどの方は、仕事から帰宅すると疲れてくたくたになっていますから、「夜、よい睡眠をとることが必要だ」と考えています。たしかに睡眠を十分にとると、身体や心は回復するでしょう。でも、夜「よい瞑想」をすることは、睡眠時間を長くとるよりも、遥かに効果的に、その日のいらだちや混乱、さまざまな感情を落ち着かせてくれるのです。

また、少し長めの時間、座って瞑想することを習慣にすることも大切です。なぜでしょうか?

それは、たとえば1時間座る瞑想をしていても、実際にしっかり瞑想できているのは15分しかないかもしれないからです。ですから、瞑想するときは、毎回、少し長めに坐るとよいでしょう。


仏教Q&A1日の瞑想ーどのくらい瞑想すべきか?
グナラタナ長老
出村佳子訳


2019/02/01

When the machine takes over the brain…


気づきと慈悲の実践: When the machine takes over the brain…2011-09-02 投稿


The brain has infinite capacity;  it is really infinite. That capacity is now used technologically. That capacity has been used for the gathering of information. That capacity has been used to store knowledge — scientific, political, social and religious. The brain has been occupied with this. And it is precisely this function (this technological capacity) that the machine is going to take over. When this take-over by the machine happens, the brain — its capacity — is going to wither, just as my arms will if I do not use them all the time.


脳


The question is : If the brain is not active, if it is not working, if it is not thinking, what is going to happen to it?  Either it will plunge into entertainment —and the religions, the rituals and the pujas are entertainment— or it will turn to the inquiry within. This inquiry is an infinite movement. This inquiry is religion. 


A Timeless Spring




2019/01/28

自己を観察し、平等を理解する(善悪とは?⑤-1)


差別することは悪行為です。

世の中の人は他人を差別し、指をさして、非難合戦ばかりしています。

でも、相手に指をさすとどうなりますか?



1本の指を向ければ、3本の指は自分に向いています。「悪いのはお前だ」と言って相手をさすと、残りの3本は自分をさしています。

ですから、他人を非難することはあまりにも愚かな行為です。



「生命」の定義



生命には貪瞋痴があります。

その貪瞋痴によって、生命は輪廻転生しています。

これは生命の定義でもあります。

貪瞋痴があるものを「生命(sattā)」といい、貪瞋痴がなければ「生命」ではありません。



ですから聖者は「生命(sattā)」とはいいません。

聖者には特別な仏教用語があり、「ariya」という言葉を使っています。

これは「乗り越えた」という意味です。


「sattā」は、日本語では「衆生」や「有情」という訳語になります。

感情があること、つまり貪瞋痴があるという意味です。


貪瞋痴の強度によって、区別が現れる
 
貪瞋痴の量は、生命によって異なります。貪瞋痴が働くためには、身体が必要ですからね。身体で貪瞋痴が制限されるのです。


たとえばアリが怒っても、人を殺すことはできませんし、スズメが怒っても、人を殺せません。


でも、人が怒ると、アリやスズメの巣をまるごと壊して、潰すことができるのです。この差です。貪瞋痴を動かす能力によって、貪瞋痴の強弱やランクが異なるのです。私たち人間の貪瞋痴と、アリやスズメの貪瞋痴の強さや量は違うのです。


他の生命を非難するのは愚かな行為



だからといって、人がアリやスズメを非難し、ばかにするのは間違っています。

「生命みなに貪瞋痴がある」ということは、すべての生命に共通していることです。

ですから、貪瞋痴で生きている生命が、他の生命に指をさして、ばかにすることは、とんでもない愚かな行為です。



たとえばアリに向かって、「お前は小さいからたいしたことができない」とか、ヘビやコブラにたいして、「身体が小さいのに瞬時に人を殺して、お前はとんでもないやつだ。殺される前に、お前を殺してやる」などと考えることは愚かなことです。

アリも、ヘビも、コブラも貪瞋痴で生きています。

人も、貪瞋痴で生きています。

みな同じ貪瞋痴で生きているのです。そこに差はありません。





自己を観察し「平等」を理解する


私たちはみな平等です。この平等ということを理解するために、自己観察をしなければなりません。

自分のこころを観察してみてください。

そうすると、欲があること、怒りがあること、嫉妬や怠けがあること、無知があることが見えてくるでしょう。

このとき「あー、気持ち悪い」と見るのではなく、「みな同じだ」と見るのです。

誰だって貪瞋痴があります。強弱やレベルの差があるだけです。



それから、「私は嫉妬深い。なんて情けないか」と見るのも、正しい自己観察ではありません。

そうではなく、「私に嫉妬がある。嫉妬がちょっと強い。嫉妬はどんな生命にもある……」とそのように自己を観察すると、落ち込むことがなくなります。

「生命は平等だ」ということがわかるのです。



これが「区別はあるが、平等」ということです。

差があるのに、平等だとわかるのです。

差異があって平等なんです。区別があって平等なんです。

これは現代社会で言われている、いい加減な平等ではありません。



こころの広い人になる



こころの広い人は他人に指をさしません。「あー、そういうことか」と理解して落ち着いています。

たとえば自分の子供が万引きして警察につかまっても、混乱したり、焦ったり、大声で怒鳴ったりしません。

落ち着いていると、子供のこころの中が見えてきます。

この子はこころに何か怒りがあってやったんだ、ということが。

だいたい子供が万引きするのはカネやモノが欲しいからではありません。それは大人です。

子供の場合、中学生や高校生になるとだんだん勉強についていけなくなって、学校がいやになって、遊びたくなるんです。

でも遊ぶカネがなくて万引きしてしまうというのが本当なんです。

子供はカネそのものが欲しいわけではありません。

こころに何か別の問題があるのです。

社会にたいして、親にたいして、学校にたいして反発したい、暴動を起こしてやりたいという別な衝動があるのです。

しかしまだ子供ですから、悪い行動をしたら自分が破滅するということは理解できません。

親や学校に迷惑かけたいと思って万引きして、わざとつかまるのです。

学校はそれなりにうまくごまかすかもしれませんが、子供の人生はそれでかなり苦しくなるのです。



そこで、こころが広い親だったら、子供の本当のこころがわかります。

そうすると、解決策が見えてきます。

子供をいきなり怒鳴ったり、非難したりしません。

落ち着いたこころで、「もし今度何か問題があったら言ってください。私はあなたの味方です。私に言いたくなかったら、信頼できるだれか年上の人に言ってください。学校に相談しやすい先生がいるなら、その先生に相談してください」と言います。

それで、何か解決策が見えてくるのです。

このように、「平等」ということを正しく理解すれば、世の中のさまざまな問題は解決できるのです。


(続きます)