2019/01/07

善友②


善友①からの続き






A:回 答 ―― グナラタナ長老



「善友」とは、心が慈悲で満たされ、あなたの精神的な成長を助けてくれる人のことです。

ここでいう「精神的な成長」とは、やすらぎと調和のなかで心を育てる、ということです。善友は、あなたが心を育てられるよう、さまざまなやり方協力してくれるのです。






「善友」は、先生だったり、親戚だったり、善き友人だったりします。彼らは見返りを求めずに、進んであなたをサポートしてくれるでしょう。「心を育てたい」というあなたの気持ちと意欲を理解して、自分の時間を割いてでも、あなたが穏やかで幸せになれるよう、協力してくれるのです。

善友は、大きな忍耐と献身をもって力を尽くしてくれます。いつでも話を聞いてくれたり、助言を与えたりしてくれます。あなたが怠けないかぎり、背をそむけることはしないでしょう。

善友は優れた聞き手であり、優れた指導者でもあります。あなたの幸せを壊すような方向には、けっして導きません。現在も、将来にわたっても、苦しみをもたらす悪行為をすすめることは、けっしてしないのです。

「善友」と「先生」のあいだに、大きな差はありません。善友は、先生でもあります。精神的な成長においては、ひとりで両方の役割を果たすのです。

精進する人にとって、解脱に達するまで善友はなくてはならない存在です。

善友は、あなたが精進しているかぎり、見離すことはありません。「私は苦しみを滅しました。あなたはひとりで頑張ってください。さようなら」とは言いません。

そうではなく、「手助けが必要なときは、いつでも来てください。質問があれば、いつでもしてください。何か問題があったときは、私がいますからね。ひとりだと思わないでください。私はここにいますから」などと言います。このように、善友は安心感を与えてくれるのです。
 
あなたは、「自分の心の成長に協力し、注意を払ってくれる人がいる」と感じるでしょう。精進しているかぎり、善友はあなたを無視しません。いつでもあなたを正しい方向に導いてくれるでしょう。

『善友②』
グナラタナ長老
(パティパダ―「仏教Q&A⑨」より)

2019/01/06

サポート

 



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口座番号:9725750
口座名デムラ ヨシコ


生きとし生けるものが幸せでありますように


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2019/01/04

善友①






A:回 答 ―― グナラタナ長老



それほど多くの知識がなくても、悟りを開くことはできます。私たちがすべきことは、自分自身を観察して、ヴィパッサナー(マインドフルネス)とサマーディを実践することです。


善友 グナラタナ著 出村佳子訳


学問的な知識がなくても、人は高い精神に達することができます。過去に悟りを開いた方はだれひとり、「悟り学」のような博士号は持っていなかったのだから――。彼らはただ、ダンマを学んだだけなのです。


では、どこで、どのように学んだのでしょうか?


自分の心と身体から学んだのです。私たちの心と身体は巨大な百科事典のようなものです。もしダンマを詳細に学びたければ、心と身体は十分なデータを与えてくれるでしょう。

とはいえ、それだけでは足りません。

「どのように自分の心と身体を観察するか」という指導がいくらか必要です。ガイドラインと、ガイドラインを与えてくれる人がいなければなりません。ここで、善友(Kalyana-mitta指導者が必要になるのです。
(続きます)

『善友①』グナラタナ長老
パティパダ―「仏教Q&A⑨」より
翻訳:出村佳子

2019/01/03

Happy New Year




新しい年が、みなさまにとって
幸せな年になりますように。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


There is none of happiness
which is beyond the well-trained mind.



生きとし生けるものが幸せでありますように




2018/12/29

人生改良計画②-2



無駄な思考をやめる


無駄な思考をストップする方法をひとつご紹介いたしましょう。

「これを考えたら私のためになりますか、幸福になりますか」と、自分に問いかけることです。何か考え方を引きずって悩んだり、落ち込んだりするのではなく、こう考えてみてください。

この思考は、
・自分のためになるか、ならないか?
・役に立つか、立たないか?
・幸福になるか、ならないか?
・他人の役に立つか、迷惑をかけるか?

このように自分に問いかけると、思考はそこでストップするでしょう。



人生改良計画 スマナサーラ長老





思考をケチる



皆さんはお金にたいしてすごく厳密でしょう。10円でも安く売っているなら、1キロ先でも歩いて買いにいく人もいるほどです。

お金の場合はそんなに厳密になる必要はないのですが、思考にたいしては厳しくならなければなりません。なぜでしょうか? 

生き方はすべて思考から現れるからです。思考は一番ケチったほうがよいものです。

皆さんは考えることは無料だと思っているようですが、実はものすごくお金がかかっています。お金を無駄に使っているのは、思考のせいなのです。

たとえば日本の経済状態を見ると、表面的には景気が回復したと言っていますが、実際はそれほど回復していないと思います。かつては経済的に世界のトップにいたにもかかわらず、かなり落ちてしまったのはなぜでしょうか?

これは思考の問題です。思考でものすごい損をしています。無駄な思考ばかりで、役に立つ思考はほとんどありませんでしたし、今もありません。政治家や関係者の思考を観察してみると、国や国民のことよりも、自分の立場や権力のことを優先している人がほとんどです。ですから立ち直ることがむずかしいのです。

とにかく思考にはよく気をつけて、ケチってください。思考はすごく危険なものです。有益なことだけを考えて、「これで終わり」ときれいに止まってください。結論を出して、すぐに終わるのです。

考えているときも「いま何を考えていますか」と、自分の思考を観察してみてください。

また、考えるためにはいろいろなデータが必要ですから、データの範囲内で考えているかないかということを観察することも大切です。データからはみ出して考えると、苦しみが生まれますから。


思考はデータの範囲内で



テレビのワイドショーやニュースの解説を見ると、思考が間違っていて、好き勝手なことを言っている番組がいかに多いでしょうか。

本当はデータがないにもかかわらず、情報を捏造し、作り立てているということが、ちょっと観察すると見えてくるのです。

そういう自分勝手な偽りの情報がいったんマスコミで流れると、情報のない視聴者はその通りだと思ってしまいます。

そこで、情報を受けとる側も、ニュースで言ったからといってそのまま鵜呑みにしてはなりません。この人にはデータがあるのかないのか、データをどのように解説しているのか、と考えることも大切なのです。

私たちは無駄な思考をしているため、頭が混乱していて、正しく考えられない状態になっています。

私たちが24時間考えていることというのは、ほんとうは24時間かかりません。ほとんど2、3分で考えて終了することができます。

ですから、役に立たない思考はしませんと決めて、思考をケチったほうがよいのです。(続きます)
スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画②-2』文責:出村佳子





2018/12/27

善悪とは?④-1


為は完成できる」 の続き



功徳から善への進み方


ここで、皆様にちょっと勉強することがあります。

私が教えなくても、皆様は功徳とは何かということを知っているでしょう。

たとえば、教会ではミサが終わるとだいたいみんな寄付をします。その寄付金は教会の維持管理だけではなく、いろいろなボランティア活動に使ったりします。あるいは目が見えない人を助けるためや、恵まれない人を助けるため、また孤児院などどこかの施設の維持管理のために使ったりします。

日本の子供たちも、路上で募金活動をしているのを見かけます。ああいうのは功徳行為なんです。

でも、これって、いくらやってもやりきれません。

ですから、「功徳」を「善」になるようにしなければなりません。パーリ語でいうと、「プンニャ(puñña)」を「クサラ(kusala)」に変えなくてはいけないのです。

このプンニャをクサラに変える方法を、これから説明いたしましょう。

2018/12/22

慈悲の瞑想


慈悲の瞑想


「生きとし生けるものが幸せでありますように」
そう心から願うとき、心は幸せで穏やかになります。
ブッダは「慈経」で、「立っているときも、歩いているときも、座っているときも、横になっているときも、眠っていないかぎりは、常に慈悲の念を起こしてください」と説いています。
慈しみを実践するのに、時や場所、状況は選びません。朝、目が覚めてから、夜、眠りにつくまで、常に慈しみを保ち、慈しみが性格になるまで実践するよう、すすめられています。
このように慈しみを保つことで、「自」と「他」の壁が壊れ、そこにこの上ない安穏な世界があらわれるのです。

「慈しみ」は幸せへの鍵 | Close-Up! この一冊 | 
web春秋はるとあき 2018.11.16より

2018/12/09

善悪とは?③-2


功徳と善に完成はあるか?の続き


功徳を積む人は寿命がある限り、善行為をたくさんします。

その人は寿命をまっとうすることができます。


他方、悪行為をする人は、寿命が終わるまで生きていられません。

不善行為をする人も、寿命が終わるまで生きることはできません。

与えられた業の寿命よりも、自分の寿命が先に終わってしまうのです。


功徳や善をおこなう人は、自分に与えられた寿命は完璧に完了します。

たとえば、生まれたときに業(ごう)によって寿命が100年となっていたら、ちょうど100年ピッタリで亡くなるのです。

功徳のよいところは、それなんです。

寿命をまっとうすることができるのです。






「寿命をまっとうする」とは、突然、難病になったり、事故に遭ったり、寿命が縮んだりすることはないということです。

功徳を積む人は、功徳行為を完成することはできませんが、寿命が終わるまで功徳を積むことができ、寿命をまっとうすることができます。

寿命が終わったら、当然、幸福なところに生まれ変わることができるのです。



「善行為(kusala)」は完成できる


一方、善行為は完成できま

完成とは、智慧が現れて、解脱に達するということです。


善行為とは、人格を向上すること、理性を育てて正しい判断能力や観察能力を身につけること、正しい行為をすることです。それで、智慧が現れるのです。


ですから功徳行為ではなく、善行為をおこなうと、智慧が現れます。


功徳だけだと、功徳だけで終わります。智慧は現れないんです。仏典には、徳をたくさん積んでいても智慧は現れないと、はっきり言っています。


ときどき、善いことをするわするわ、誰もかなわないくらい善いことをする人がいるんです。

しかし、智慧は現れません。

いま思いだしたのはマザー・テレサさんです。彼女がおこなった行為は誰もかないません。しかし、あれは功徳行為です。智慧は現れにくいのです。

でも、彼女は普通の人にかなわないくらいの功徳を積みましたから、智慧が現れる可能性もあったようです。彼女の本を読んでみると、智慧が現れかけていた兆候が見えるのです。

インドの貧困の人をすべて完璧に面倒見ることは、いくらなんでもやりきれないことでしょう。やればやるほど、人間が不幸であることを発見していくのです。

それで、彼女は最後のほうになってくると、少し客観的に現実を観察するようになり、「なんだこれは、神が創った世界なのに不幸ばかり。やりきれない。これでは人生に納得できない」というふうに、生きることが苦であることを理解していくのです。神に縋ることは、彼女にとって答えではなかったようです。

そこで、もし彼女が、「生命は誰だって苦しんで生まれ、苦しんで生きて、苦しんで死ぬんだ」ということを理解したなら、智慧が現われ、心が落ち着いたでしょう。

彼女がどこまで理解できていたのかはわかりませんが、彼女が立派な方であったことは明らかなことです。


「善」というのは、ものごとを理解して、判断能力を正すことです。

何かを理解したということは、智慧が現れたということです。

それで智慧が完成したら、生きる問題はすべて終了するのです。



善が完成すると、功徳も完成する



善が完成すると、ついでに功徳も完成します。

徳が自動的に完成するんです。

なぜなら、功徳は善の中にあるのだから。





生きとし生けるものが幸せでありますように


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法話:スマナサーラ長老

善悪とは?

根本仏教講義 ➤ 目 次

文:出村佳子

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2018/12/04

希望と欲望⑤-1

正精進③
今おこなっている善行為を、完成するまで拡大する


私たちは日常生活の中でいろいろな善いことをしています。

たとえば仕事をまじめにするとか、社会が発展するよう努力するとか、そういう自分が誠意をもってやっていることがいろいろあると思います。

その「善いことをさらに完成するところまで努力する」のが3番目の希望――いわゆる「正精進(sammā vāyāma)3番目」です。

これぐらいでいいのではないかと、ほっとしないようにしてください。私は毎朝9時から夕方5時まで仕事をしているから、それでいいのではないかと安心するのではなく、さらに「善いこと、役に立つことはないでしょうか」と、自分が日々やっている善い行為を、完成させるまで努力しなければならないのです。

たとえば、学校の先生の場合、「自分は10年間も教えてきたからそこそこ経験もあるし、教える内容も身についているし、教え方も、子供をまとめる方法も知っているから、それぐらいでよいのではないか」と安心してはなりません。

より立派なことをしようと智慧をしぼって、さらに努力することが大切なのです。





正精進④
今までしたことのない善行為をする



正精進の4番目は「今までしたことのない善行為を勇気をだしてする」ことです。

先ほどの学校の先生を例だと、今まで教科書どおりに教室で教えてきましたが、ちょっと方向を変えて、子供たちと外に出て自然のなかで授業をするとか、あるいはキャンプに行くとか。

そうすると机上の勉強では学ぶことのできない新しい発見が生まれてくるかもしれないのです。

でも、私たちはたいてい何か新しいことをしようとするとき、「やったことがないからやめよう」という弱気な気持ちが出てくるものです。善い考えは浮かぶけれども、やったことがないからやめましょうと、そういう弱さがあるのです。

これは仏教ではあまり認めていません。

仏教は、たとえやったことがなくても、それが善い行為なら、勇気をもってやりなさいと教えています。いつでも前進です。

これが4つ目の正精進であり、善い希望なのです。


続きます)

根本仏教講義『希望と欲望⑤-1』