2018/11/16

よい瞑想と悪い瞑想 ②






A:回 答 ―― グナラタナ長老


よい瞑想と悪い瞑想①の続き

怒りを観察する

「怒りを観察する」グナラタナ長老(著)出村佳子(訳)


たとえば怒りが湧き起こった瞬間、気づきを使って、

「怒り、怒り」とか、「これは怒りだ。怒りは心のやすらぎを壊す」とか、「いま、心臓の鼓動が速くなっている」などと、心や身体で起きていることを、あるがままに観察してください。

怒りが生じるとすぐに、脳は、

「心臓の鼓動を早めろ!」
「血圧を上げろ!」

といった指令を身体に送ります。感情は、身体に影響を与えるのです。観察すれば、このことがわかるでしょう。

感情を観察してください。
観察を続けていると、怒りや恐れ、不安、欲がゆっくり消えていくのがわかるでしょう。

もしかすると、すぐには消えず、少し時間がかかるかもしれません。

でも、たえず観察することによって、感情は消えていくのです。


心に生じる諸々の現象を、マインドフルに観察し続けることは、私たちがすべき最も大事なことのひとつです。
ならば、どうしてそれらが悪いものだと言えるでしょうか?

また、あなたは「よい瞑想」と言っていますが、それはどういう意味でしょうか? 

「よい瞑想」とはなんでしょうか?

おそらく心が静かになって、それほど忙しくない状態になっているのかもしれません。

でももしかすると、いわゆる「よい瞑想」をしていると、気持ちがよくなって、だんだん眠くなるかもしれません。

そして「ああ、瞑想がうまくできている……。瞑想がよくできている……」と誤解するかもしれないのです。

でも、それはよい瞑想ではありません! 
それこそ、悪い瞑想なのです(笑)。

眠気を感じたら、その眠気を観察してください。
精進して、なんとか目を覚ますようにし、眠気を取り除くために何かをするのです。

たとえば、深呼吸を3回して、体中の血液に酸素を送るのもよいでしょう。

あるいは姿勢を変えて立つ瞑想をし、眠気を追い払うこともできます。

また、眠くなっているときでも、その眠気に気づき、眠気を観察するなら、それは観察しているのだから、悪い瞑想になりません。

このような理由から、瞑想には「よい瞑想」も「悪い瞑想」もないのです。

これは、あなたが瞬間瞬間、湧き起こる感情をどのように扱うか、ということによります。

感情が生じた瞬間、それに気づくなら、どんな状況も「よい瞑想」になるのです。


暴走する馬車を止めるように、
湧き起こる怒りを制する者、
私はその人を「御者」と呼ぶ。
他の人は、ただ手綱を持つだけである。
(ダンマパダ222

***

Yo ve uppatitam kodham,
Ratham bhantam va dhqraye;
Tam aham sarathm brumi,
Rasmiggaho itaro jano.
(Dhammapada 222)

2018/11/15

希望と欲望③-1


欲と怒りはセット


私たちの心には「檻に入ったトラ(欲)」が住みついています。檻に入っているから大丈夫、危害はない、と思うかもしれませんが、だからといってトラがネコのようなかわいいペットかというと、とんでもありません。

ただ檻に入っているから危害がない、それだけのことです。

檻の扉を開けた瞬間、たとえ毎日エサをあげて面倒をみていたとしても、トラは飼い主に襲いかかってきます。真っ先に誰を殺すかというと、ほかならぬ飼い主なのです。


同様に、異常な欲が生まれたら、真っ先に攻撃され、殺されるのは、欲をだした自分です。ひどいときは周りの人も巻き込んでしまうでしょう。


ですから、異常な欲望は大変危険なものなのです。



欲望のもうひとつの顔



欲望とは言いにくいのですが、強い願望といえる感情がもうひとつあります。


パーリ語で vyāpāda と言い、意味は「異常な怒り」です。これも異常な欲(abhijjhā)と同じで十悪に含まれ、とても罪が重いものです。


Vyāpāda とは、他人に害を与えたくなる気持ち、いわゆる暴力をふるいたいとか、他人を害したい、傷つけたいという気持ちのことです。

それも、異常なほど。異常に他人を壊したくなるのです。

社会にはときどき、突然怒りが爆発して自分と何の関わりもない人を殴るとか殺すとか、そういう異常な怒りを持つ人がいます。

こういう人たちは精神的な病気で、ノーマルレベルを越えています。

怒りを制御することができないため、何でもいいから壊したい、誰でもいいから殺してやりたいと心が絶えずイライラし、ある日突然、常識では考えられないような凶行に走るのです。



欲が強い人ほど、怒りやすい



なぜ異常な怒り(vyāpāda)のことを説明したかといいますと、欲と怒りはセットだからです。

性質は正反対ですが、二つはセットになっています。ですから、欲が強ければ強いほど、人は怒りやすい

たとえば、ある男性が女性のことをものすごく好きになったとしましょう。それで告白したところ、もしふられたら、頭がおかしくなってその女性を殺してしまうかもしれません。

本当に好きなら相手を尊重して大事にすればいいのに、なぜ殺すのかというと、あまりにも欲望と愛着が強く、でも自分の思いどおりにならなかったため、怒りが爆発するのです。



欲と怒りは表裏一体です。欲の裏側には、怒りが潜んでいます。


ですから欲が強ければ強いほど、裏で怒りが繁殖しているのです。


朝から晩まで金儲けのことばかり考えている人がいるとしましょう。

周りの人たちは「この人はお金にしか目がないみたいだけど、まぁそれほど害はないでしょう」と、安心することはできません。何をするかわからないのです。

もしその人にお金が入らなくなったら、突然、怒るでしょう。怒って、自分や周りを破壊するのです。

日本の社会でも、エリート中のエリートが不正を働き、それが見つかって自殺する、ということがときどきあります。

自殺は怒りです。不正行為をしたら、潔く、申し訳ないと謝罪して罰を受けたほうがいいのに、こういう病的な人たちは憤慨して自殺するのです。

飼っていたトラが檻から出た瞬間、真っ先に飼い主を襲うように、常識レベルを超えた欲と怒りは、真っ先に自分を殺すのです。

そういうわけで「異常な欲」が出てきたら、気をつけてください。心の裏側では人を殺すほどの恐ろしい「異常な怒り」が繁殖しているということなのだから。

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望③』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子

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2018/11/13

希望と欲望②-2


糸が切れた凧


「余計な欲(abhijjhāは「普通の欲」とは異なります。

「普通の欲」とは、もう少し収入があったら家族を楽にしてあげられるとか、もう少し環境のいいところに住めるとか、たまにおいしいものが食べられる、という程度の欲です。


これは小さな欲ですから、すべて崩壊するところまではいかないでしょう。

でも、リミットを越えた瞬間、糸が切れた凧のように、どこまでも、あてもなく、飛んでゆくのです。

 
私たちの心には、ものすごい煩悩がたまっています。欲と怒りと無知(貪・瞋・痴)で、かぎりなく汚染されているのです。



希望と欲望



私たちは、歩く原子爆弾のように大変危険なものです。


日常生活のなかでは爆発しないよう、なんとか抑えて生活していますが、少しでもネジがゆるむと、爆弾が爆発したように、貪・瞋・痴が爆発し、自分や周りを壊し、大きな苦しみをもたらすのです。

 
貪・瞋・痴は、どこまででも成長します。原子爆弾のように、連鎖反応でどんどんどんどん成長するのです。


たとえば、夏休みにどこかへ旅行するとしましょう。
旅行したら、「ああ、よかった。楽しかった。もう充分だ」と満足するのではなく、「次はもっと楽しいところへ行きたい」と思うのです。

それで次の年「楽しいところ」へ行ったら、またその次の年には「さらに楽しいところ」へ行きたくなります。

 
おいしいものが食べたい、という欲が出たら、おいしいものを探して食べ、それを食べてもまた、おいしいものを食べたい、と欲が出ます。

それを食べても満足しませんから、さらにもっとおいしいものを探します。

このように、欲は連鎖して、どんどんどんどん膨らんでいきます。

ですから、欲は危険なものです。しっかり管理することが大切なのです。

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望②-2』
スマナサーラ長老法話

文責:出村佳子


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2018/11/11

希望と欲望②-1


3種類の「欲」の続き

欲をバネにして人格を向上させることはできません。欲に基づいて行動すると、最終的にはかならず失敗するのです。

そこで、幸福な生き方を目指す人は、欲は有害な毒であると見て、欲から離れることが大切です。

とくに底なしの異常な欲望(abhijjhā)に関しては、修行や瞑想を始める前から離れておかなくてはなりません。


欲があると、「いまあるもの」も失う



ジャータカ物語をひとつ、ご紹介いたしましょう。

ある人が王様のもとを訪れ、このように言いました。

「あなたはすばらしい王様で、強い軍隊をたくさん持っているのに、なぜこのような小さな国を治めることで満足しているのですか? 
希望が小さいのはよいことではありません。
となりの国に侵攻して、自分の国を拡げてはどうですか」

それを聞いた王様の心に、巨大な欲(mahicchatā)が生まれました。

「よし、わかった。となりの国を攻めて、私の国にしよう!」

そう言って、すぐに軍隊を集め、戦いに出ようとしたのです。


ところで、王様には、知識のある優れた大臣たちがそばにいました。

そのなかで、もっとも智慧のある偉い大臣が、
「戦争はやめたほうがいい。落ち着いて平和でいたほうがいい」と、戦争にまったく賛成しないのです。

しかし、王様はこの大臣の言葉にはまったく耳を傾けませんでした。

智慧のある大臣は、王様のことが心配になりました。
そこで戦争には反対でしたが、あまりにも心配ですから、軍隊といっしょに出かけることにしたのです。


ちょうどその頃、インドは雨季に入り、毎日、雨が降り続いていました。

しかし王様は軍隊に、「前に進みなさい。たとえ雨が降っても引き返してはならない」と命じました。

ある日のこと、森で野宿しているとき、馬のエサとして、栄養のある豆を小分けにし、あちこちに置いておいたところ、それを見ていたサルが、「おいしそうな食べものだ」とばかりに、木から降りてきました。そして、手で豆をひとつかみ握ったのです。

でも、まだ豆はたくさんあります。
それで、反対の手でもう一つかみ握りました。

見ると、豆はまだたくさんあります。それで今度は口いっぱいに豆を頬張りました。

口と両手いっぱいに豆を持ち、木の上に登ろうとしました。

しかし、両手は使えませんから、足で登るしかありません。

どうにかこうにか木の上に登ったところ、手から豆が一粒、ポトンと地面に落ちました。

サルは「キャー」と鳴き、あわててその一粒の豆を拾うために木から降りたのです。

鳴いた瞬間、口から豆が全部落ち、さらに両手の豆も全部落ちてしまったのです。

たった一粒の豆のために、サルはすべての豆を失ったのです。

その様子を見ていた王様が、
「あー、バカなサルだ。一粒ずつ手で取って食べればいいのに。欲深いなぁ。欲が深いから、全部なくしてしまったんだ」と言いました。

それを聞いた智慧のある大臣は、
「欲深いのはサルだけではありませんよ。あのサルと同じことをやっている人がこちらにもいるのではないでしょうか」と言いました。

王様が「なんのことか」と言うと、大臣は、

「これまで王様は自分の国を治めることだけで充分満足していました。なのにいまは隣国に侵攻して、自分のものにしようとしています。それもこの雨季の時期に。ゾウや馬は風邪をひいて熱をだし、となりの国に着くころには身体が弱っているでしょう。軍隊も雨で衰弱し、疲れ切っていますから、戦う力はありません。私たちは簡単に相手軍に殺されるでしょう。ですからいま王様がやろうとしていることは、あのサルがやっていることよりもひどいことではないでしょうか」

王様はようやく目が覚めました。
「わかりました。国へ帰りましょう」
そう言って、引き返したのです。

この話は「欲をだしたら、いま持っているものも失う」という話です。


欲は崩壊のもと



これは社会を見るといくらでも例があります。
日本でも、ある偉い方が、わずかなお金に欲をだしたために、地位も権力も失って逮捕された、というニュースをときどき聞くことがあります。

毎月高い給料をもらい、そのうえ国や会社から住宅や車などを安く貸してもらい、外国に行くときには旅費や滞在費が全部おりますから、お金のかかるものはほとんどありません。奥さんの服代や子供の養育費ぐらいです。

なのに、もう少し裏でお金をもらおうではないかと欲をだし、不正行為をしたため、逮捕され、結局は職も、地位も、立場もすべて失うはめになるのです。

ですから、理解してください。
欲はネガティブで、暗い思考です。英語で言えば、productiveではなくdestructiveです。
いわゆる有効的・効果的ではなく、破壊的ということです。

会社は、経営者が欲をだせば、倒産しますし、家庭は、家族の誰かが欲をだせば、崩壊するでしょう。

国は、国の権力者が欲をだせば、すぐに崩壊するのです。

1990年、イラクが隣国のクウェートを奪おうと欲をだし、たった1日でクウェート全土を支配下に収めたということがありました。

それでどうなったかというと、米英軍によってハイテク兵器がイラクに投入され、その劣化ウラン弾の影響で、いま多くのイラクの子供たちが、ガンや白血病、奇形の病気にかかって大量に死んでいるのです。

また、経済制裁のために食料が不足していますから、栄養失調や飢餓でも苦しみ死んでいます。

これからどのくらいこの国の人々が死んでいくかわかりません。

これは、当時のイラクの大統領が自分の国だけでは満足せず、「となりの国を奪って自分のものにしよう」と、とんでもない欲をだしたことによります。

その結果、国民を苦しみの泥沼に落とし入れたのです。
        

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望②-1』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子



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③欲は破壊のもと



2018/11/09

希望と欲望①-2

〈2018年11月9日更新、2008年4月26日作成〉

3種類の「欲」


・余計な欲(Abhijjhā:アビッジャー)


Abhijjhā は、簡単にいうと「余計な欲」という意味です。

なぜ欲の上に「余計」という言葉を付けるのかというと、一般的にどんな人にも欲はありますが、そのような日常生活のなかで生まれるごく普通の欲は、「余計な欲」と言いません。

でも、限度を超えてきりがなく欲が出てくると、それは「余計な欲」となるのです。


「普通の欲」の場合は、修行しない限りコントロールすることがむずかしいのですが、「余計な欲」の場合は、修行や瞑想をする前から、あるいは仏教を学ぶ前から、抑えておかなければならないものです。


十悪は、仏教徒であろうかなかろうか、人なら誰でも避けなければならないものであり、犯したら必ず罪になります。

これは普遍的な法則ですから、宗教や信仰には関係がありません。仏教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も、無宗教の人も、どんな人も、十悪の行為をしたら罪になるのです。


たとえば他人の物を盗んだ場合、仏教徒は罪になりますが仏教徒以外の人は罪にならない、ということはありません。

どんな人でも盗みをしたら罪になるのです。

動物も同じで、盗むと、罪になるのです。



https://sukhi-hotu.blogspot.com/p/blog-page_38.html




・巨大な欲(Mahicchatāマヒッチャター)


Abhijjhā のほかに、欲望を表す言葉として「mahicchatā」があります。これは mahā と icchatā の二つの語からなっています。Mahā は大きい、 icchatā は希望という意味です。

希望といっても、ここでは悪い意味で使っていますから「欲望」となります。

この二つの語を合わせて mahicchatā は「大きな欲」「巨大な欲」という意味になります。



・悪い欲(Papicchatā:パーピッチャター)



これは pāpa と icchatā からなり、pāpa は罪や悪。 icchatā は欲しがること、という意味。ですから、「罪・悪」と「欲しがる」ことで「罪になる欲」「悪い欲」という意味です。 



埋められない欲



いま「abhijjhā」「mahicchatā」「pāpicchatā」の3種類の欲を説明しましたが、なぜこれらは悪いもので、罪になるのでしょうか? これから考えてみましょう。  


世の中には、人が成長し成功するためには、ある程度の欲望が必要、という考え方があります。


事業で成功したい、お金を儲けたい、地位や名誉、権力が欲しいなど、そういう欲望をバネにして、それに向かって邁進することによって人は成長できると考えているのです。


これは正しい考え方でしょうか?


仏教から見ると、「あれも欲しい、これも欲しい……」ということばかり考えている人の心のなかは、大きな穴がぽっかりあいています。いわゆる空っぽ。悪い意味での空っぽです。精神的に満たされていないのです。


さらに悪いことに abhijjhā と mahicchatā には、欲の穴に底がありません。底なしの穴なのです。


ですから、モノをいくら入れても穴は埋まりません。埋められないのです。


欲望には、そのような特色があります。いくらあっても足りない、満足しない、これが欲望なのです


お金持ちでも心は貧乏


欲の深い人は、明るい性格ではありません。思考も暗いし、性格も暗いです。皆さんは日常生活のなかでいろんな人とおつきあいしているでしょうから、本当かないか、ご自分で調べてみるといいでしょう。


欲深い人の顔や生き方を見てください。機会があれば、そういう人の家を訪ねてみてください。ものすごく暗い影があることが見えると思います。


四六時中、儲けたいとか、出世したいとか、誰かに勝ちたいとか、強くなりたいとか、美しくなりたいとか、おいしいごちそうを食べたいとか、常に心が「~が欲しい」「~したい」という感情でいっぱいになっていますから、心には落ち着きや明るさがないのです。

このような欲の深い人たちが何をするのかというと、破壊行為です。

たとえば、お金にたいして貪欲な人は、とにかくどんな方法を使ってでもお金を得ようとします。手段は選びませんし、相手の気持ちも考えようとしません。

相手のことはどうでもいいから自分がなんとしてでも儲けたい、と考えます。

社会の秩序や道徳、平和といったことはまったく考えません。

自分にお金が入ればいい、自分や自分の会社さえ儲かればいい、としか考えないのです。そうするとどうなるでしょうか? 


当然、社会の調和やバランスが崩れてしまうのです。


それから、その人はお金をいっぱい儲けたからといって、明るく活動するかというと、それもしようとしません。

なぜかというと、いつも「足りない、足りない」という気持ちでいますから、いくらあっても「足りない」と感じるのです。それでさらにため込もう、儲けようとするのです。

ですから、貪欲な人が社会にひとりでもいるということは、社会全体の調和を崩し、迷惑になります。

そういうわけで、欲望は罪になるのです。

                     (続きます)
              
 根本仏教講義『希望と欲望①-2』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子




2018/11/06

希望と欲望①-1

〈2018年11月6日更新、2008年4月26日作成〉


「希望」と「欲望」 ―― どちらの言葉にも「望む」という言葉が含まれています。


しかし一般的に「希望」のほうはよいものとされ、「欲望」のほうは悪いものとされています。


私たちが「どのように望むのか」ということで、意味がよいものにも、悪いものにも変わってくるのです。




希望とは?


まず「希望」から見てみましょう。
これは、何かの実現を願い望むという意味です。英語では、hope・wish・aspiration など、いくつか言葉があります。これらはどれも肯定的な意味で使われています。

とくに aspiration にはとても積極的な意味があり、否定的な意味で使われることはありません。

否定的に使う場合は、たとえば hope なら、語尾に less を付けて hopeless とします。そうすると否定形になるのです。




欲望とは?


次に「欲望」を見てみましょう。

文字どおり、欲望は、欲に基づいて何かを望むことです。欲に基づいているのですから、道徳的な立場から見ますと、これは善いものではありません。

欲には、いろいろなレベルがあります。


いちばん悪くて病的な欲望は、パーリ語でabhijjhā(アビッジャ―)と言います。

これは、非常に欲が深く、必要以上に欲しがること、貪欲、という意味です。


Abhijjhā の語を分析すると、Abhi と ijjhā の二つの語からできており、Abhi は「常識レベルを越えている」という意味、ijjhā は「希望する、欲しがる」という意味です。

そこで Abhijjhā は「常識レベルを越えて欲しがる」という意味になります。


ところで、仏教には「十悪」という教えがあります。悪い行為を十種類に分けているのですが、その十種類のなかに Abhijjhā(貪欲)が含まれているのです。


十種類の悪行為とは、

① 殺生:生き物を殺すこと。
② 倫盗盗むこと。
③ 邪淫邪まな行為。
④ 妄語嘘をつくこと。
⑤ 悪口悪い言葉で人の心を傷つけたり、貶したり、誹謗したりすること。
⑥ 両舌人の仲を裂くためや調和を壊すために噂話をすること。
⑦ 綺語:意味のないことを話すこと。無駄話。おしゃべり。これは時間と頭の知識を無益に浪費します。
⑧ 貪欲強い欲望(abhijjhā)
⑨ 瞋恚強い怒り(vyāpāda )
⑩ 邪見見方が間違っていること(micchāditthi)

この十種類のうち、重い罪は貪欲と瞋恚と邪見です。


さらに、その中でももっとも重いのは、邪見です。

                     (続きます)
              
パティパダー誌20085月号
根本仏教講義『希望と欲望①-1』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子

2018/11/05

よい瞑想と悪い瞑想①






A:回 答 ―― グナラタナ長老


気づきの瞑想をするときには、そのような差はありません。「よい瞑想」も「悪い瞑想」もないのです。

なぜでしょうか? 

あなたがどれほど「瞑想がうまくできなかった」「悪い瞑想だった」と考えたとしても、その瞬間、その場で、その経験を瞑想対象にすることができるからです。


グナラタナ長老〔著〕/出村佳子〔訳〕


なぜ「瞑想がうまくできなかった」とか「悪い瞑想だ」と考えるのでしょうか?

心が静かにならず、一つの対象に集中できなかったからかもしれません……。

あるいは、怒りや欲、緊張、あせり、恐怖にかき乱され、頭の中が悩みや恐れでいっぱいになっていたからかもしれません……。

しかしこうした感情は、瞑想で使うべきものです。

ですから、瞑想をしているときに不快感やネガティブな感情、妄想などが生じたら、それを悪いと思わずに、利用してください。

その瞬間、その場で瞑想の対象にするのです。

たとえば妻や夫、上司のことが思い浮かび、怒りが湧いてきたとしましょう。そのとき、その怒りを瞑想対象にして、観察するのです。

それ以外、何もする必要はありません。

怒りにとらわれずに、怒りを観察してください。

そして、怒りから離れるのです。

怒りに惑わされないよう、気をつけてください。 
                   
(続きます)

よい瞑想と悪い瞑想①』パティパダー誌2018年8月号

バンテ・グナラタナ

2018/11/02

智慧と善行為⑦

2018年11月2日更新、2012年7月21日作成


「自利」と「利他」


善行為には二種類あります。

一つは、他人を助けることです。これは世の中の誰もが善い行為と見なしています。

では、自分のために何かをすることは悪いことでしょうか? 


悪くありません。私たちは自分の幸福のためにいろいろなことをする必要があるのです。



「自利」と「利他」



では、「自分のために善いことをする」ことと「他人のために善いことをする」ことと、どちらが善いことだと思いますか? 



それは判断できません。
自分を犠牲にして他人のためにやることが善行為であり菩薩行だ、という考えもありますが、あれは間違いです。結局、この二つを区別することはできないのです。


たとえば、若者たちがおとなしく、自分のためだけに勉強するとしましょう。ボランティアなど社会的な善い活動はしませんが、悪いこともしません。それで社会が悪くなると思いますか? 


社会全体が明るくなるのです。
自分が自分のためにまじめに勉強することは、自分のための「自利の行為」ですが、それで社会も豊かになるのです。


仕事の場合も同じです。自分の仕事をしっかりおこなうこと、これは自利の行為ですが、結局は社会全体の繁栄につながるのです。


一人で静かに勉強したり、瞑想したり、修行したり、戒律を守ったりすることは、他人や社会には関係がないことですが、そうやって立派な人間でいるだけでも、社会にとても善い影響を与えています

ですから、善行為は自利でも利他でもどちらでもよいのです。



あるいは、私が千円しか持っていません。その千円でごはんを食べようと外に出ました。その途中、たまたま道路で義捐金を集めている人たちがいて、持っていた千円を寄付しました。


ごはんを食べようと思っていたのに、ごはんが食べられなくなりました。

これは自分を犠牲にしたことですが、私は喜びを感じているのです。「善い行為をしました、よかった、よかった」と楽しい気分になっているのです。

千円でごはんを食べたら、それほど長持ちする楽しみは得られないでしょう。

このように、他人のためにやった行為でも、その結果は自分に返ってきます


ですから、自利と利他は区別することはできません。区別すること自体が間違いです。


善行為をすることによって人格が向上しますし、また社会のためにもなるのです。



問題は、心



それから、行為は闇雲におこなうものではありません。すべての行為は意志でやっていますから、意志が汚れると行為も汚れます。


たとえば十万円を誰かにあげたとしても、もし汚れた心であげたなら、善い結果にはなりません。十万円あげただけでは、善い行為にはならないのです。十万円を貰った人が、そのお金で麻薬を買ったり何か悪い行為をしたりすることを知りながらあげたならば、あげた人は罪を犯したことになるのです。


義捐金として十万円を寄付することとは大きく異なります。


ですから同じ「十万円をあげる」という行為でも、その人の意志で、善行為にもなり、悪行為にもなるのです。


社会では「怒りは悪い行為」と決まっていますが、親や教師、コーチなどはよく怒ります。


その人たちは、相手のことを嫌って怒っているのではありません。「育てたい」「一人前にしてあげたい」という意志が強いのです。やさしい顔を見せたら成長しないだろうと思っているのです。


ですから、親や先生の怒りは悪行為だと決めることはできません。



親が怖かったから、先生が怖かったから、という理由で立派な大人になった人は大勢います。


子どもが貪・瞋・痴の感情で弱くなっていて、貪・瞋・痴と闘う気力も失っている場合、親や先生はその子を怒鳴ったり脅したりしなくてはいけません。そうしないと、その子は感情に負けて堕落してしまいますから。


親や先生のその行為は、表面的には悪行為として見えるでしょうが、心は善い意志が働いていますから、善行為になるのです。


しかし、「善意なら怒っても脅してもいい」と決め付けるのは早計です。

怒らなくても脅さなくても、人々を育てる方法がいろいろあります。それには理性と判断能力が必要です。


仏教はこの問題を「優しい」と「厳しい」という言葉で解決します。お釈迦様は人を育てるとき、四つの態度をとられました。


 やさしくする 
 ・厳しくする 
 ・やさしくしたり厳しくしたりする 
 ・完全に無視する 


育つ見込みがまったくない場合は、その人に余計な迷惑をかけないよう、無視することをします。弟子入りを認めないのです。

人にたいして厳しい態度をとることは、必ずしも悪行為にはなりません。

悪意で厳しい態度をとることは、悪行為にきまっています。

悪意で他人にやさしく振る舞うことも、悪行為なのです。

ですから、意志に注意しましょう。意志が常に善になるように戒めるのです。


「意志が常に善であるように」と言われると、「それは無理。できるわけがない」という気持ちになるかもしれません。


お釈迦様は、子どもからお年寄りまで誰にでも、簡単に、四六時中、意志を善に保つ方法を教えられました


それは「生きとし生けるものが幸せでありますように」という気持ちです。

この言葉を常に念じて生きることです。


「私は他の人々のおかげで生きているのだから、社会にたいして恩返しをしなければなりません」という気持ちでおこなう善行為は、すばらしい善行為になります。

それによって、智慧も現れてくるのです。(了)