①-1)まず善悪の勉強から始める ①-2)不善と悪の違い ②-1)悪と不善・功徳と善の関係 ③-2)善行為は完成できる ④-1)功徳から善への進み方① ④-2)功徳から善への進み方② ⑤-1)自己を観察し「平等」を理解する ⑥-1)他の役に立つように生きる ⑦-1)「自分は悪いことをしない」と決める ⑦-2)対話と理解 ⑧-1)仏道は、両目を見えるようにする ・・・・・・・・・・・・・・・ |
2018/11/08
「善・悪」とは?〈もくじ〉
2018/11/06
希望と欲望①-1
〈2018年11月6日更新、2008年4月26日作成〉
「希望」と「欲望」 ―― どちらの言葉にも「望む」という言葉が含まれています。
しかし一般的に「希望」のほうはよいものとされ、「欲望」のほうは悪いものとされています。
私たちが「どのように望むのか」ということで、意味がよいものにも、悪いものにも変わってくるのです。
希望とは?
まず「希望」から見てみましょう。
これは、何かの実現を願い望むという意味です。英語では、hope・wish・aspiration など、いくつか言葉があります。これらはどれも肯定的な意味で使われています。
とくに aspiration にはとても積極的な意味があり、否定的な意味で使われることはありません。
否定的に使う場合は、たとえば hope なら、語尾に less を付けて hopeless とします。そうすると否定形になるのです。
欲望とは?
次に「欲望」を見てみましょう。
文字どおり、欲望は、欲に基づいて何かを望むことです。欲に基づいているのですから、道徳的な立場から見ますと、これは善いものではありません。
欲には、いろいろなレベルがあります。
いちばん悪くて病的な欲望は、パーリ語で「abhijjhā(アビッジャ―)」と言います。
これは、非常に欲が深く、必要以上に欲しがること、貪欲、という意味です。
Abhijjhā の語を分析すると、Abhi と ijjhā の二つの語からできており、Abhi は「常識レベルを越えている」という意味、ijjhā は「希望する、欲しがる」という意味です。
そこで Abhijjhā は「常識レベルを越えて欲しがる」という意味になります。
ところで、仏教には「十悪」という教えがあります。悪い行為を十種類に分けているのですが、その十種類のなかに Abhijjhā(貪欲)が含まれているのです。
十種類の悪行為とは、
① 殺生:生き物を殺すこと。
② 倫盗:盗むこと。
③ 邪淫:邪まな行為。
④ 妄語:嘘をつくこと。
⑤ 悪口:悪い言葉で人の心を傷つけたり、貶したり、誹謗したりすること。
⑥ 両舌:人の仲を裂くためや調和を壊すために噂話をすること。
⑦ 綺語:意味のないことを話すこと。無駄話。おしゃべり。これは時間と頭の知識を無益に浪費します。
⑧ 貪欲:強い欲望(abhijjhā)
⑨ 瞋恚:強い怒り(vyāpāda )
⑩ 邪見:見方が間違っていること(micchāditthi)
この十種類のうち、重い罪は貪欲と瞋恚と邪見です。
さらに、その中でももっとも重いのは、邪見です。
(続きます)
パティパダー誌2008年5月号
根本仏教講義『希望と欲望①-1』
スマナサーラ長老法話
編集/文責:出村佳子
編集/文責:出村佳子
希望と欲望
⑥-2)何を「目的」にするか?
2018/11/05
よい瞑想と悪い瞑想①
Q:質 問
瞑想には「よい瞑想」と「悪い瞑想」がありますか?
もしあるなら、その違いはなんでしょうか?
どんな差があるのでしょうか?
A:回 答 ―― グナラタナ長老
気づきの瞑想をするときには、そのような差はありません。「よい瞑想」も「悪い瞑想」もないのです。
なぜでしょうか?あなたがどれほど「瞑想がうまくできなかった」「悪い瞑想だった」と考えたとしても、その瞬間、その場で、その経験を瞑想対象にすることができるからです。
なぜ「瞑想がうまくできなかった」とか「悪い瞑想だ」と考えるのでしょうか?
心が静かにならず、一つの対象に集中できなかったからかもしれません……。
あるいは、怒りや欲、緊張、あせり、恐怖にかき乱され、頭の中が悩みや恐れでいっぱいになっていたからかもしれません……。
しかしこうした感情は、瞑想で使うべきものです。
ですから、瞑想をしているときに不快感やネガティブな感情、妄想などが生じたら、それを悪いと思わずに、利用してください。
その瞬間、その場で瞑想の対象にするのです。
たとえば妻や夫、上司のことが思い浮かび、怒りが湧いてきたとしましょう。そのとき、その怒りを瞑想対象にして、観察するのです。
それ以外、何もする必要はありません。
怒りにとらわれずに、怒りを観察してください。
そして、怒りから離れるのです。
怒りに惑わされないよう、気をつけてください。
(続きます)
『よい瞑想と悪い瞑想①』パティパダー誌2018年8月号
バンテ・グナラタナ
2018/11/02
智慧と善行為⑦
2018年11月2日更新、2012年7月21日作成
「自利」と「利他」
善行為には二種類あります。
一つは、他人を助けることです。これは世の中の誰もが善い行為と見なしています。
では、自分のために何かをすることは悪いことでしょうか?
悪くありません。私たちは自分の幸福のためにいろいろなことをする必要があるのです。
では、「自分のために善いことをする」ことと「他人のために善いことをする」ことと、どちらが善いことだと思いますか?
自分を犠牲にして他人のためにやることが善行為であり菩薩行だ、という考えもありますが、あれは間違いです。結局、この二つを区別することはできないのです。
たとえば、若者たちがおとなしく、自分のためだけに勉強するとしましょう。ボランティアなど社会的な善い活動はしませんが、悪いこともしません。それで社会が悪くなると思いますか?
社会全体が明るくなるのです。
自分が自分のためにまじめに勉強することは、自分のための「自利の行為」ですが、それで社会も豊かになるのです。
仕事の場合も同じです。自分の仕事をしっかりおこなうこと、これは自利の行為ですが、結局は社会全体の繁栄につながるのです。
一人で静かに勉強したり、瞑想したり、修行したり、戒律を守ったりすることは、他人や社会には関係がないことですが、そうやって立派な人間でいるだけでも、社会にとても善い影響を与えています。
ですから、善行為は自利でも利他でもどちらでもよいのです。
あるいは、私が千円しか持っていません。その千円でごはんを食べようと外に出ました。その途中、たまたま道路で義捐金を集めている人たちがいて、持っていた千円を寄付しました。
ごはんを食べようと思っていたのに、ごはんが食べられなくなりました。
これは自分を犠牲にしたことですが、私は喜びを感じているのです。「善い行為をしました、よかった、よかった」と楽しい気分になっているのです。
千円でごはんを食べたら、それほど長持ちする楽しみは得られないでしょう。
このように、他人のためにやった行為でも、その結果は自分に返ってきます。
ですから、自利と利他は区別することはできません。区別すること自体が間違いです。
善行為をすることによって人格が向上しますし、また社会のためにもなるのです。
問題は、心
それから、行為は闇雲におこなうものではありません。すべての行為は意志でやっていますから、意志が汚れると行為も汚れます。
たとえば十万円を誰かにあげたとしても、もし汚れた心であげたなら、善い結果にはなりません。十万円あげただけでは、善い行為にはならないのです。十万円を貰った人が、そのお金で麻薬を買ったり何か悪い行為をしたりすることを知りながらあげたならば、あげた人は罪を犯したことになるのです。
義捐金として十万円を寄付することとは大きく異なります。
ですから同じ「十万円をあげる」という行為でも、その人の意志で、善行為にもなり、悪行為にもなるのです。
社会では「怒りは悪い行為」と決まっていますが、親や教師、コーチなどはよく怒ります。
その人たちは、相手のことを嫌って怒っているのではありません。「育てたい」「一人前にしてあげたい」という意志が強いのです。やさしい顔を見せたら成長しないだろうと思っているのです。
ですから、親や先生の怒りは悪行為だと決めることはできません。
親が怖かったから、先生が怖かったから、という理由で立派な大人になった人は大勢います。
子どもが貪・瞋・痴の感情で弱くなっていて、貪・瞋・痴と闘う気力も失っている場合、親や先生はその子を怒鳴ったり脅したりしなくてはいけません。そうしないと、その子は感情に負けて堕落してしまいますから。
親や先生のその行為は、表面的には悪行為として見えるでしょうが、心は善い意志が働いていますから、善行為になるのです。
しかし、「善意なら怒っても脅してもいい」と決め付けるのは早計です。
怒らなくても脅さなくても、人々を育てる方法がいろいろあります。それには理性と判断能力が必要です。
仏教はこの問題を「優しい」と「厳しい」という言葉で解決します。お釈迦様は人を育てるとき、四つの態度をとられました。
・やさしくする
・厳しくする
・やさしくしたり厳しくしたりする
・完全に無視する
育つ見込みがまったくない場合は、その人に余計な迷惑をかけないよう、無視することをします。弟子入りを認めないのです。
人にたいして厳しい態度をとることは、必ずしも悪行為にはなりません。
悪意で厳しい態度をとることは、悪行為にきまっています。
悪意で他人にやさしく振る舞うことも、悪行為なのです。
ですから、意志に注意しましょう。意志が常に善になるように戒めるのです。
「意志が常に善であるように」と言われると、「それは無理。できるわけがない」という気持ちになるかもしれません。
お釈迦様は、子どもからお年寄りまで誰にでも、簡単に、四六時中、意志を善に保つ方法を教えられました。
それは「生きとし生けるものが幸せでありますように」という気持ちです。
この言葉を常に念じて生きることです。
「私は他の人々のおかげで生きているのだから、社会にたいして恩返しをしなければなりません」という気持ちでおこなう善行為は、すばらしい善行為になります。
それによって、智慧も現れてくるのです。(了)
根本仏教講義「智慧と善行為⑦」
スマナサーラ長老法話
2018/10/31
2018/10/29
1分間瞑想②
Q:質 問
瞑想会ではみなが瞑想していますから瞑想しやすいのですが、自宅に帰り、日常の忙しい生活に戻ると、気づきと静寂を保つことができなくなります。
どうすれば日々の忙しい生活のなかで瞑想することができるでしょうか?
心の場合も同じです。
悩んだり、激しく動揺したり、混乱したり、精神的に苦しんだりしているときには、なんらかの応急処置をして、心を健全な状態に戻さなければなりません。
もし、心の苦しみにたいして何も手当てしなければ、身体の傷のように、苦しみが悪化するでしょう。
最悪の場合、うつ病やノイローゼに陥ってしまう可能性があります。
そして心の苦しみは、胃の疾患や心臓病などさまざまな病気として身体にあらわれることもあるのです。
心のなかではさまざまなことが起こっています。
深刻な病気を患ったときはじめて、これまで「人生を混乱した心ですごしてきた」ことを振り返るようになるのです。
したがって、病気になる前に、どこにいるときでも、常に気づくようにしてください。
「定期的な瞑想」とともに、日常生活のなかにこの「1分間の瞑想」を加えるとよいでしょう。こうやって心を訓練するのです。
心がいらだったら、いらだったまま行動しないでください。
一度立ち止まり、いらだちに対処してから、次の行動をするのです。
仏教Q&A『1分間瞑想②』
グナラタナ長老
翻訳:出村佳子2018/10/26
智慧と善行為⑥
2018年10月26日更新、2012年6月24日作成
意志の汚れ
意志は、重要な働きです。どんな行為も意志から生まれています。問題は、私たちの意志が汚れているということです。
私たちには常に意志が働いていますが、その意志は貪・瞋・痴で汚れています。「貪」は欲、「瞋」は怒り、「痴」は無知です。
意志が汚れていますから、私たちの行為はほとんど悪行為になります。貪・瞋・痴で生きているかぎり、行為はすべて悪行為になるのです。
貪・瞋・痴のブレーキ
皆さまも経験があると思いますが、善い行為をしようとすると、心にちょっとブレーキがかかるということが起こります。あのブレーキはなんでしょうか?
たとえば、「お年寄りの方が電車に乗ってくると若者はタヌキ寝入りしますよ」と若者に悪口を言う人がいます。私はそう思っていません。
日本の若者はそんなに悪くないんです。では、なぜタヌキ寝入りするのでしょうか?
どこかでブレーキがかかるのです。「どうぞ座ってください」と言えないのです。ポイントはそこです。あれが貪・瞋・痴です。
どこかでブレーキがかかるのです。「どうぞ座ってください」と言えないのです。ポイントはそこです。あれが貪・瞋・痴です。
他の人が見ていますし、もし「結構です」と断られたら恥ずかしくて立場がないですし、あるいは譲っても座らないでしょうとか、自分も疲れているからこのまま座っていてもいいんじゃないかとか、いろいろ理屈をつくって席を譲らないだけです。
お年寄りなんか知ったことじゃないよ、とそんな気持ちはありませんし、別に悪い人ではないのです。
でも善行為はしません。それは貪・瞋・痴がブレーキをかけているからなのです。
そこで、東日本大震災のような大災害が起こると、もうブレーキがかけられない状態になって、みんな一斉にワーッと善いことをし始めるのです。ブレーキはもう機能しません。
普段はすぐにブレーキをかけます。何か善い行為をしようとすると、恥ずかしくてどこかでためらってしまうということがあるのです。このためらう気持ちが貪・瞋・痴です。
そこで、「善行為をするたびに、自分の貪・瞋・痴を戒めている」ということをおぼえておいてください。
善行為をすることで、自我がなくなって、恥ずかしさも消えて、花が咲いたように明るくなります。
お年寄りの方が電車に乗って来たら、「どうぞどうぞ座ってください」とサッと席を譲ることもできます。
声をかけたところで相手の方に「次の駅で降りますから」と断られたら、「そのあいだだけでもどうぞ」と、すごく明るく言ったり、あるいは「私は立ちたくてたまらなかったんです」などと言うと、お年寄りの方も「若いのに、いい方ですね」と楽しくなります。
お互い、すごくやさしい世界が生まれます。それで電車に乗っていた五分間は最高に幸福な五分間になるのです。
そういうわけで、貪瞋痴を戒めなくてはなりません。そのために善行為をする。
善行為をすると、智慧が現れてくるのです。(続きます)
善行為をすると、智慧が現れてくるのです。(続きます)
根本仏教講義「智慧と善行為⑥」
スマナサーラ長老法話
2018/10/23
智慧と善行為⑤
2018年10月23日更新、2012年6月24日作成
善悪の行為は意志で決まる
生きるとは、行為をすることです。
行為は、どんな行為であれ、意志(心)がないと起こりません。
「食べたい」という意志がなければ、食べる行為はありません。
呼吸をするときも、ずっと意志が生まれ続けています。息を吐き終わった瞬間に息を吸っていますが、そこにも意志が働いています。すべての行為は意志でおこなっているのです。
生きるとは、行為をすることです。
そして行為はすべて、意志から生まれます。「立ちたい」という意志がなければ立ちませんし、「話したい」という意志がなければ話しませんし、「歩きたい」という意志がなければ歩きません。
それから、意識的にわかる意志もありますし、わからない意志もあります。呼吸の場合は明確で、意識して呼吸をすることもできますし、意識しなくても呼吸はしています。
意識する・しないかにかかわらず、意志はいつでも働いているのです。
心臓も同じです。意志が働かないと、心臓は動きません。
でも私たちがいちいち意識して「はい膨らみましょう」「次は縮みましょう」などと考えていると生きていられませんから、そこはオートモードになっています。意識的にわからないだけで、本当は意志が管理しているのです。
たとえば、何か怖いことが起こると心臓はどうなるでしょうか?
ドクンドクンとするでしょう。意志が管理しているからです。
すべての細胞の動きは、意志がやっています。また、その行為は心と身体に影響を与えます。
心と身体に善い影響を与えたいと思うならば、当然、善い意志で善い行為をしなくてはいけないのです。
しかし、生命はもともと心が汚れていますから、自然に悪い意志を起こして、悪い結果をだす行為を簡単にしています。
一般的に、「善行為に善果・悪行為に悪果」と言われていますが、お釈迦様は、「善い意志でおこなう行為には善い結果。悪い意志でおこなう行為には悪い結果」とがおっしゃっています。
行為そのものよりも、「意志」に注意したほうがよいのです。
たとえば、義捐金として、ホームレスの人が1000円寄付し、大企業の社長が10,000,000万円を寄付したとしましょう。どちらの善行為が、より価値の高いものになるのでしょうか?
この判断は、「善行為をしたい」という意志によって決めなくてはいけないのです。
ホームレスの人の1000円は、もしかするとその人の全財産かもしれません。ごはんも食べられなくなるかもしれません。ですから、寄附行為をするときは、強い意志が必要だと言えるのです。
大企業の社長の場合は、全財産ではないのです。家計が苦しくなることも、飛行機に乗るお金がなくなることもないでしょう。ですから、それほど強い意志が必要ありません。
金額は1000円かもしれませんが、「全財産」をあげたホームレスの人のほうが善行為の価値が高くなるのです。
行為の結果は表面的なかたちではなく、内面的な意志によって決められるのです。
したがって、派手な行為が善い行為というわけではありません。どのくらい財産を持っているか、どのくらい派手なことをしたか、そのようなもので徳の大きさが決まるのではありません。自分の意志で決まるのです。
(続きます)
根本仏教講義「智慧と善行為⑤」
スマナサーラ長老法話
2018/10/20
功徳と善に完成はあるか?「善悪とは?③-1」
功徳と善に完成はあるか?
「功徳(puñña)」にも完成はありません。
いわゆる人を助けたり、ボランティアをしたり、お布施をしたりなど功徳行為しても、完成することはできません。
自分が精一杯やっても、もっとできるからです。
たとえば困っている人を助けるとしましょう。何人助けられますか?
限りがあるのです。ですから功徳行為は完成することができません。
2018/10/19
悪と不善に完成はあるか?「善悪とは?②-2」
悪と不善に完成はあるか?
次に「完成」ということについて考えてみましょう。
悪と不善に「完成」はあるのでしょうか?
悪行為は激しく命を破壊し、不善行為は徐々に破壊します。
悪行為の場合、たとえば他人を殺したら、自分の命もそれで終わりです。社会から逃げても隠れても無駄です。自分がやった悪行為が、毎日自分を破壊していくのです。
不善行為とは判断を間違えたり、失敗したり、下手で何をやってもうまくいかず、結果がダメなことで、そうなってくるとじわじわと自分の人格が下がっていきます。